昭和42年9月13日 朝の御理解



やれ痛や、今、みかげをよという心になれよと。やれ痛や、今、みかげをよという心になれと仰る。んー、痛いと思うたり、痒いと思うたり、または、情けないと思うたり、腹が立つと思うたり、えー、同じだと、こう思うんです。ま、いわば、難儀を感ずると言う事です、ね。様々な、難儀を感じるときに、有難うございますという心になれよというのでございます。やれ痛や、今、みかげをよという心になれよと。何でもないのに、後ろから、ぽかんと、人に殴られた。ね。痛いです。何するかと。何で文句あったっかと。あー、 間違えとりました。どうもすみませんでしたと。相手が言やあいいけれども、やはり、向こうには、向こうに、叩かなければならない理由があるのである。ね。間違えら、神様は、間違えられることはない。人間同士なら、間違えることもある。勘違いもある。けれども、神様は、絶対に間違いなさるような事はない。間違いで、後ろのほうから、ぱちんと叩かれるといったような事はない筈なんです。ね。それに、どうして叩いたかと。というような事では、おかげは受けられんという事。やれ痛やと、私共が、難儀を、痛い、痒いを感ずるときに、神様、どうもすみませんと。いや、有難うございますと。ね。それが、みかげである、おかげであるという事になれば、やはり、お礼を申し上げること以外ないのでございます。ほんとにあの、私共はですね。信心させて貰うものは、ここんとこを、ほんとに分からなければいかんのです。でなかったら、信心生活出来ません。いや、本当に神様の心に添う信心はできません。勿論、本当のおかげも、力も徳も受けられません。荒れておる。文句ばっかりというようなことではいけん。どうしてこんなに、悲しい思いをしなければならないのであろうか。どうしてなれば、こんな切ない、苦しい思いをしなければならんであろうかと。自分は、こんなに、例えば、人に連れのう当たられるに致しましてもです。どうしてあの人から、自分は連れなく当たられねばならんのかと、言うておったんでは信心になりません。ね。だから、なぜ、そう、連れのう当たられねばならんかという、理由というか、訳を分からせてもらうとです。ね。なるほど、やれ痛や、今、みかげをよという心にです。なれるのです。有難うございます。この言葉に、いっちょ、喜びで開けた道じゃから、喜びじゃ、苦労はせんと仰るが、ね。なぜ、喜ばなければならんかという、やはり、訳が分かっておかなければならん。訳も分からんのに、ただ、叩かれても、有難うございます、ね。損を掛けれれても、有難うございますと。なるほど、そういえれる心の状態になれば、理屈は抜きにしても、おかげ下さるのですけども、やはり、そこんところを分らせて貰うのが信心。ね。私も、それを思うんですよ。やれ痛や、今、みかげをよという心になれよなんていう御教えがあるけれども、痛いときに、おかげでございますと、なぜ言わねばならんのかと、こう、思うのですよ。そげん言わず、皆は、そう言うておって、例えば、ほんなら、痛うございますから、直してください。ね。こういう難儀な問題がありますから、どうぞ、その難儀から、助けて下さい、助けて下さいだけでは、だから、いけない事になる。一応はその難儀をです、有難く頂かせて貰える、いや、有難くというよりも、おー、それを、叩かれなければならない訳があるということをです。難儀を感じなければならない、という訳柄を、一つ分からせてもらうと、有難いのですね。
昨日、私は、ある方のお取次ぎをさせてもらった。それこそ、この人から、こんな事を聞こうとは思わなかった。この人から、こんなことを言われるとは思わなかった。夢、思わなかった。それで、もうそれは、私は、ここで、そんな話を聞かせて頂きよってもです。まあ、そういう、ひどい事を言うてと、言うようなことを言われてるんです。先生、私は、そん時には、身体が、ぶつぶつぶつぶつ、振るい出しました。と言うて、その、いわゆる、訴えております。ね。どうしたならば、このくらいな人間から、自分がこういうような事を言われなければならんのかと。ね。そら、そん時言うて返せば、勿論、喧嘩にもなりましょう。私は、本当に、本当に、ああいう時に、もし信心がなかったら、私は、もう、本当に、掴み合うて喧嘩になっとったでしょうと、こういう。そしたら、それこそ、考えてみただけでも、どういう結果になるかという事をです。ね。そん時思わせてもらって、まあ、私ぐらいなもんでも、信心いただいとるおかげで、訳は分からんなりに、もう、ガタガタこう、振るうようにあったけれども、辛抱さしてもらいましたと、こう言うんであります。それは、私が、聞いておってもですね。まあ、そげなひどい事を言うてねというような気持ちでした。まあ、よう辛抱したね。ところがです。その人は最近、もう、それこそ、神様のお働きとは、こんなもんだろうかというような、大みかげを蒙っておる人であり、家なのです。ね。いわば、信心も出来ませんのに、このような広大なおかげを頂いてという程に、おかげを頂いておる人なんです。家にも、身にも。ね。だから、ほんとにおかげ頂いた、おかげ頂いたと言いよるとこへ、そういう問題が、パッパッと、いう風に起こってきたんです。ね。そして、この人から、こんな事聞こうとは思わなかった、それこそ、身のうちから、ガタガタ震いが来るように、腹の立つようなことを言われたんだけれども、金光様、金光様と辛抱したとこういう。なるほど、辛抱が出来た。だけどそれは、辛抱しただけではおかげにならんのですよね。そしたらですね、(ほんとに、うにも、みおものこうだいに?)な、信心もできませんのに、このようなおかげを頂いてと、こういうその、おかげの事がです。いや、信心も出来んのにおかげを受けておるという事がです。ね。いわゆる、お礼不足なんです。その、お礼不足のために、バランスが崩れたのです。バランスが取れなくなって来た訳なんです。ね。まあ、分かりやすく言うなら、どうでしょうかね。一万円の品物を頂いた。ほんとに、信心も出来ませんのに、一万円もするのを頂きましたと言うてもです。実際は、五千円がたの信心しか出来てないとするならば、いわゆる、五千円というものが、借金になっておる訳です。ね。その、五千円のところをです。例えば、もう、ほんとに、痛い、辛い、または、もう、身のうちが震うような事を持って、バランスを取っておりませんとです、折角頂いたそのおかげの、おかげのバランスが崩れた。折角頂いたおかげを、また、落とすような結果になるのです。ね。はー、そういう事を私は頂いてですね。なるほど、これは、ある、こういうようなおかげを頂いておる、頂いておるという事に対する、お礼不足がです、ね。腹が立ったり、痛かったりといったような事が、起こってくるというのは、一つの自戒作用だと言う事です。自戒作用というのは、例えば、皆さんが、えー、食べ過ぎたり、飲みすぎたり致しますね。そして、胃やら、腸やらを悪く致します。悪くすると胃が痛む。腸が痛む。下痢をする。これが自戒作用なんです。それは、神様が、この身体を守って下さろうとする働きがです。原因になってくる。もし、あれが、下痢でもしなかったら、この五体の方が持てんのですよ。食べ過ぎてですね、さあ、中に障るようなものが出けておるのにです。もし、下痢をしなかたらです。身体のほうが持てんのです。そういう事を自戒作用というのです。ね。例えば、肺がんなら、肺がんの人がです。熱がでる。ね。もしあれが、熱が出なかったらですね。もっと身体にひどいことになってくる。私は、そら、まあー、医学的なことですから、詳しくは知りませんけれども、そういう話を聞いております。ですから、まあ、熱があることも有難い。蹴りをすることも有難いという事になるのです。そして、なぜ、熱発しなければならなかったか。なぜ、下痢をしなければならなかったかという事を、追求しなければいけません。ね。例えば、手をこう切るです。それは赤い血が出ます。ね。手は切ったばってん、血は出らん、なんていったら大変なんです。ね。血が出ることもおかげなんです。私は、その事を通してですね、なるほど、やれ痛や、今、みかげをよという心になれよと仰る、その、訳柄が分かったように思うのです。ね。どうして私がこの人から、こんなに連れない仕打ちを受けなければならんのかと。よくよく分からせて頂いたら、このような広大なおかげを頂いて、本当に、神様の働きというものは、まあ、ほんとに、不思議でたまらん。まあ、信心も出来ずに、このようなおかげを受けてというおかげを受けておる事は事実である。ところが、ま、それだけの信心が出来てないところをです。やはり、カバーしていかなければいけません。そこで、ある人を使うて、ね。このような人からといわれるような人を使うて、もう、それこそ、身の内が震うよな、腹立たしいことを、の、難儀な問題を持って、バランスを取って下さるのです。そこへ、現在頂いておるおかげというものを維持していくことが出来る。神様は、そういう願い、そういう働きをです。私共の上に下さることがあるんですけれども、それが分かりませんとです。折角の、今は、借金払いが出来ておるのにも関わらずです、ね。歯がゆい思いをしたり、いわば、そこんところで、その、おー、それこそ、言いたい事言うて、えー、問題が問題になって行くような、取り返しの付かないような事になって、折角頂いたおかげまでも、落としてしまうというような結果になるのです。ね。皆さん、そこのにきが、その、分かられたでしょうか。分かられなかったら、自分の問題、自分が感じておる、いろんな問題からです。そこんところを一つ、ゆっくり、あの、追求されてですね。やれ痛や、今、みかげをよという心にならせてもらえるところ迄分からにゃいかん。訳も分からんなり、有難うございますと、言える素直さを持っておれば、また別ですけれどもね。叩かれてまで、有難うございますといえれる、その、純な心を持っておればよいのですけれども、何事に叩かなければならんのか。何のため、私が、こんなに痛い思いをしなければならんのか。自分は悪くないのに、人が叩いたと言うところにはです。やはり、喧嘩になるより他にありません。それでは、まあ、神様のほうにでも、折角頂いておるおかげが崩れるような結果になる。神様が下さっておるそのおかげを、維持して下さる為に、そのおかげを、いよいよ、おかげたらしめて下さる為に、そういう働きがあるのです。そういう時に、私共がですね。そういう働きと知らずにです。言い訳を致しましたり、それに向かいましたり、ね。そして、または、それが人である場合は、人を恨んだり、あれが言うた事なんかは、もう、いっちょも、一生忘れん。などと言うてです、自分の心の中に、コリを作って行ったんではです。折角のその、自戒作用が、自戒作用にならんのです。折角、おかげがおかげにならんのです。私共でも、こうやって、広大なおかげを頂いておりますが、しかも信心も出来ませんのに、このようなおかげを頂いておるという、実感が、心の中にございますとです。問題があて、苦しいことがありましてもです。ね。その、苦しい問題をです。ね。これだけの広大なおかげを頂いておるのであるから、ね。信心が足りないところを、これが、もし、カバーして下さるとするなら、その問題でも、やっぱり、有難い、このくらいの事で済ませて頂くなら、有難いという事に、これはなるのでございます。ね。信心というのはね。そこんところを、信心を分からせて貰う事によってです。ね。あれも有難い、これも有難いという事になるのです。いわゆる、いうなら、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになるのです。ね。そういう、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになってこそ、初めて、一人前の信者じゃと仰るのですから。ね。そこんところが、ね。いうなら、叩かれても有難いと、言えれる心を作っていく事。しかも、今日は、そこんところを、私は、理屈を、理屈というか、そのリズムを持って申しましたですね。なぜ、その、おー、有難いといわなければならないかという事を。ね。ただ、私は、あの人から、ああ言われた時にです。どうして、この人から、ああいうひどい事を言われなければならんのかと、それこそ、身内がガタガタ震うようでございました。私に信心がなかったら、それこそ、掴み合うて喧嘩になっとったでしょうと、というだけでは、だからいけないと。ただ、金光様、金光様と、辛抱したと言う事だけ、まあ、それは、辛抱したこともおかげですけれども、それに、もう一つです。このようにして、信心の足りなかったところをです。ね。補うておって下さるんだという事になってくる時にです。やはり、痛いけれども、やれ痛や、今、みかげをよと、まあ、それを、言うならば、わが身は、やれ痛や、今、めぐりのお取り払いを頂いておるという事にもなる場合があります。ね。このようなおかげを頂いてと、という前に、おかげが頂いてさえいないのだけれども、おかげが頂けれるために、そうしてめぐりのお取り払いを、借金を先に取って下さるといったような場合もございますけれどもです。今日の場合は、このようなおかげを頂いておるという訳です。頂いておるのに、信心も出来てませんから、これによって、バランスを取って下さい。折角頂いたおかげが崩れないように、と言う事だったんです。その時ですね。私、その事を頂いて、その事を伝えさせて頂きます時に、もう、何ていうでしょうか。最近には珍しい、あの、苗木一本、境内を直すお夢を頂きました。ね。本当のことを分からせて貰うときに、神様は喜んで下さるのです。もう、その事が本当なんです。ね。ですから、讃えた人、そのえげつのう言うた人、そして、身内の震うような、腹立たしい事を言うた人こそです。実を言うたら、迷惑なもの。神様は、その人を使うてまでも、この人がおかげを頂くために。してみると、よくよく分かると、その、私に、そう言うた人にでもです。本当に、すみませんでしたと、誰でもそんな、いや、憎かとやらですね。人が腹の立つようなことを、好んでで言いたい人はありませんのだけれども、その人もやっぱり、使われておると言う事が分かります。ね。あれが、あげな事言われてからですね。もう、一生、一遍でん言いかえしてやらんならん。といったような事がです。あってよかろう筈がありませんですから。むしろ、お礼こそ言わなければならん。いや、それをそのまま、神様のお言葉としていただかなければならんのですよ。にもかかわらず、私どもは、どうでしょうか。一生生活の上に、ね。ですから、折角ここで、信心させて頂いておるのにです。いっこう、貯金が出来ん。いや、徳の貯金が出来ん。という時にはです。やはり、そういうようなことで、折角、働きよる、貯金はしよりというはずが、引き出しよるようなことが、私はあるんじゃないかと思います。それが、只今申しますようにね、痛い思いした時に、どうして(大祓いだからといったようなことをいっとるようなことはなかろうか?)人間ならば、場合によってね。後姿が、ようあれに似とるきんと思うちから、ばちんと、そげな事があるかもしれませんよ。誰だこの叩くのは。人違いでした、すみませんでした。とうとう、( ? )神様は、そんなこつはない、間違いしなさるような事はない。言い訳をしなければならん、ね。人に難儀を掛けられるでも、そういう一つの、訳があってのことなんです。場合には、めぐりの取り払いの場合もありゃ、悩みを頂いておることを、いわば、維持して下さる為に、バランスを取って下さる為に、それも、(ったぐらもんやら?)または、歯がゆい思い、腹立たしい思いをさして下さる事があるのですから、その事を、有難いと、お礼を申し上げねばならんと言う事が、分かるでしょうが。ね。ですから、そういう場合ですね。そんなら、風邪を引いて熱がでたり、咳が出たりすることもですね。それは、この身体が維持して下さる為に、熱が出たり、咳が出たりするんだという事を、分かる前にですね。風を引かんようなおかげを頂くという事がたとえば、一番の有難いことだという事になるでしょうが。ね。例えば、そんなに、人からです、そんなに、えげつないことを、言われんですむようなおかげを頂くことが、もっと有難いことでしょうが。そのためには、私共がですね、おかげをおかげと気付かせてもらい、自分がめぐりが深いなら、めぐりが深いことを自覚させてもらい。ね。自分のめぐりが深いことが、自覚できる。自分は、こんな因縁を持っておるんだと言う事が分かるはずだ。今こそ、その因縁が外れて言ってるんだ、今こそ、めぐりのお取り払い頂いておるんだと言う事が分かります。また、おかげなら、おかげを自覚する。本当に、信心もできませんのに、このようなおかげを頂いてということが、本当に分からせて頂いたらです。そのおかげに対して、私共が、手厚いお礼の信心が出来る。ね。この御礼の信心以外にはないです。その、お礼の信心が、もう、いわば、風ひくこともないでしょう、痛みを感じるようなこともないでしょう。そういう、えげつないことを言われんでも、いわば、すむおかげを頂かれるのですけれども、そこが人間です。おかげをおかげと気づかない場合があります。めぐりが、不快が取れたと、思っておりながら、分かっておりながら、それを、迂闊に忘れているような事がございます。ね。ですから、お礼の信心と言う事が、如何に有難いかと言う事が分かりますですね。手厚うに、神様に、厚うお礼申させてもらうところの、信心が出来てさえおれば、おかげをおかげと、感じれるところの信心。百のおかげを頂いておる、と思うならばですね、二百のおかげを頂いておると思うて、お礼の信心させて貰うのです。四神様が仰っておられます。ね。十のおかげを頂いたなら、二十のお礼、二十のおかげを頂いた時には、四十のお礼をさして頂くような気持ちになると、次には、もう、四十のおかげぞと、こう仰っておられます。私共が、十のおかげを頂いておると思うときに、二十のお礼を、ここで出来ますとですね、もう、その次は、二十のおかげを頂いておるというのです。もう、実際の事言うたら、それでも実は足らんのですけれども、私共は、おかげをおかげと感じきらんだけの事。だから、てーげー、いい加減に、ものの解釈がなければ、お礼不足になってくると言う事。この、お礼不足ではです、折角のおかげが崩れてくる。ですから、このおかげを維持させて下さる為にも、ね。損をしたり、腹の立ったり、情けなかったりするような事が、起こってこなければならない。それは、一つの自戒作用なのです。この身体を、健康を維持して下さる為に、そういう、熱もありゃ、咳もあるんだ、下痢もあるんだという事になるのです。皆さん、どうですか、難しかったでしょうか。今日のご理解は。ね。けれどもですね。そこんところが、本当に分からなければいけんのです。ね。それはほんなら、あー、ひっくるめて、分かりやすう言うとですたいね。やれ痛や、今、みかげをよという心になれよと仰る、その心、そのまま信ずる以外にはないのです。ね。やれ痛や、今、みかげをよという心になれと。苦しい事ではございますけれども、それをただ、理屈抜きにして、有難いと、こう分かれよと、こういうのである。此の方の道は、喜びで開けた道だから、喜びでは苦労はさせんと仰るように、人が喜べないところでも、喜ばせてもらえるという事になるのです。ね。それを、なぜ、ほんなら、他ではならんのかと。なぜ、言い換えると、いいことでもない、叩かれて痛いことを、おかげと言わねばならんのかと、言う心が、私共にあるならば、今日、私が申しましたような事を、やはり、難しゅうても、よーく、分からなければいけないところです。ね。わかって、なるほど、お礼を申し上げねばならんのだなあと言う事が分かる。同時に、私共がですね、いかに、お礼の信心が出来ているようにあっても、お礼不足であることを、もう、驚くばかりです。何ぼお礼を申し上げても、申し上げても、足らんのです。それこそ、お礼の足りない、お詫びばかりをしておりますと、ま、三代様が仰いますところも、そんなところじゃなかろうかと思いますね。どうぞ。